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華志笑の心の通信記録

日々を書き留めた雑記ブログです。

覚悟をかためる、ということ。

愛とはなんだろうか?

厳しさだろうか?

優しさだろうか?

傷だろうか?

愛で満たされる、とは?

 

自立とはなんだろうか?

経済力を他人に頼らないことか?

いや、経済の本質そのものが、他人との関わりなのに?

 

精神的自立とはなんだろうか?

愛に気付くこととは?

 

カルマによる人間関係のつながりが95パーセントをしめている。

だから、私たちが、私が、なぁんだそういうことか、と気付いていくタイミング、ひらめくタイミングがやってきたら、相手は私の視界から消えてしまう。

逆にいうと、どんなに喧嘩して呪ってみても、嫌いを連発しても、カルマの関係が清算されていないうちは、消えたくてもお互いに離れることも、消えてしまうことも、出来ない。

 

魂の傷を癒す、唯一の手立てが、この世界の理について、自分の腑に落とすこと。

 

また、5パーセントの関わりは、魂の家族の関係。

だから、その人のカルマの清算が進んでいるかそのままかとは関係がなく、ただただずっと側にいながら、時に憎まれ役を買いながら、時に助けあいながら、ずっと縁が切れずに、転生修了までの一万年以上の時を共にしている。

 

だから、初対面でも、兄弟姉妹や親子のような感覚になる。

また、実際の親子、兄弟姉妹の関係の人に、この魂の家族の関係の人がいることも多い。

もちろん、魂の家族と、実際の家族は別物なので、実際はカルマの関係である家族ももちろんいる(というより、確率的にそっちの方が多い。)

見分け方は、私が独立したときも、カルマの精算が終わったように見えても、死別しても、縁があるかどうか。

カルマの関係の親子、兄弟姉妹だと、自分の魂のテーマを生きている真っ最中(つまり、実家でのテーマをする必要ないとき)は、連絡が遠くなったり、年に一度も会わなくなったり、忘れたりします。わかりやすく極端な場合を書きましたが、まぁ、ここまでわかりやすく会わないことは珍しいかもです。何だかんだいいながら、実家のカルマって割りと一生抱える人がほとんどですし。

 

魂の関係の親子、兄弟姉妹は、何だかんだいいながら、一生ずっと連絡が密にあったり、偶然会えたりしますし、忘れません。

 

今の私は、本当の私の魂の家族グループのメンバーも知っているし、そのなかに囲まれながら生活をしている。

ありがたいことに、孤独ではない。

ただただ、ありがたい。

 

魂の傷を癒す、魔法の言葉が、このありがとう。

実に理不尽な出来事にも、学びや気付きがあり、その関わりは、実は毒でも苦しみでもない。ずっと過去に囚われていたり、ずっと学ばないままでは抜け出せない苦しみも、苦難から、学びを得れば、抜け出してしまえる。

 

諦めを得ることで、苦難が少なくなっていく。

 

そういう人に近付き、さらに良くなった。

ありがたいではないか。

今まで、ありがとう。

本心から、そういう台詞が言えるようになれれば、もうその人間関係の苦しみからは抜け出せる。

 

大丈夫。必ず終わりがある。

それを自分で決めることも、出来る。

 

愛とは、たったひとつのつながりに気付き、満たされる自分で居続けること。

 

誰にでも運命の人がいて、運命の人と互いの学びを交換し、結ばれ、この地球を共に卒業することが、皆の最終目標です。

 

一番最初に理を発見し、決めた存在も、実は男女一組で二人でひとつの魂であった……。

 

だから、一人分の玉座に二人座りながら導いています。

 

私たちは、全てつながり、ひとつだということ。

全て我が事だということ。

全て私だという事実を腑に落とす時、運命の人と結ばれる扉は開かれます。

 

ただ、それは、都合のよい王子さまお姫さまが現れるわけではありません。

むしろ、逆です。

頭抱えるような現実をみながら、運命の人にどう魂の理を理解してもらうか、腑に落としてもらえるか、また、私の足りない部分は何か。

激しく討論しあいます。

私、これから、そうなるんです。

覚悟出来てきました。

 

ただ、私もあなたも、簡単には変わりませんよね?本質は変わりませんよね?

だから、ずっと平行線のような気がするやり取りが、運命の人とのやり取り。

そう、ツインレイの試練、ということなんです。

 

それでも、ツインレイの試練に立ち向かうことが許されるのは、転生最終間際のみ。

だから、私もあなたも、力がちゃんとあるんで、大丈夫です。

これを読んだって縁があるなら、これから変わっていけるし、変えていけます。

 

選ぶのはあなたです。